はじめに

 天台の古刹円城寺は、三瓶川に沿うて三瓶東原−多根を下ったところ野城にある。
ここは、大田から六粁、三瓶川を上った山あいの里、むかし甘露が降ったという瑞祥の地、それで甘屋の地名も産れた。というと、すでにこの里は霊場であったのだろう。
 川を渡り胸つき八丁の急坂を登ると境内が開け、緑したたる大樹の蔭に聖坊でにぎわった昔がしのばれる。ここからの三瓶山の眺望はすばらしく雄大。朝夕刻々に変化する山容、四季とりどりの姿、六根清浄の登山者だけが味わえる大三瓶の景観である。けだし静寂が楽しめる現代三瓶観光の一勝地ともいえよう。
 この三瓶山山麓一帯には、神代の昔、大国主命たち三神のひもろぎをたててまつった上中下の津森の里−多根があり、熊野信仰の伝説をもつ小屋原がある。三瓶こそ神霊の鎮坐されるところ。この神霊−山霊に接して悟道に入らんとした山岳修行の大徳が、この地を訪れたことは、山林仏教流布の当時として不思議でもないようだ。円城寺創立の営構は、山霊を感得し、難行苦行の上完成された。次いで修験道行者は、この大徳のあとをしたい、この鷲峯におしよせた。武具に身をかためることが時にあっても、悟道修業の大眼は失しなかっただろう。国家安泰と現世安穏の厳行は忘れなかっただろう。
 わたしは、三度この境内に登った。
この霊地にして千手観音の創建があり、この山境にして四十八坊の隆盛がみられたものと感を深くしたものである。
 円城寺本尊は三十三年毎に開扉される秘仏であらせらる。昭和八年から一巡りして本年五月開扉供養の年季を迎えることとなって、円城寺奉賛会の信徒は誠意、この記念事業に奉仕されている。そして、その事業の一として「円城寺由来記」編集を計画された。私はその編集の大役を命ぜられた。供養の盛儀にめぐりあったことをよろこびつつ、文筆にうとい自分を反省しつつもこの編集にあたらせて頂くことに決意した。
それは数日前のことである。
 この由来記は、円城寺記を参考とした。
「我が郷土と我が校の教育」編者福間強介先生−この書に「円城寺記」や三瓶史料がのっている。漢文体のこの寺記は大田高校の斉藤義心先生に和訳して頂いた。さらに円城寺由来の資料は福田喬平氏よりいろいろご説明を頂いた。以上関係の各位に感謝し、後日の正誤を期し、関係各位のご批判をねがってやまない。

  昭和四十二年四月
                忍原峡にて  坂根兵部之輔


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