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観音講便り


第78号 「陰徳は日本人の美質であった。」

2021年10月02日 11:49更新

 近頃、よく言われることであるが、日本人は自分の立場や意見をはっきり表明することが少ないと言われる。国際社会にあっては、自分の国の立場を臆面もなく表明し、わがままに振る舞う国が多い中、はっきりと自国の立場を表明することの少ない日本国及び日本人は、他国の人々には理解しづらい国民性にうつるのであろう。

 顕徳の考え方に立つ米欧に比べ、日本人は、美徳とされてきた陰徳を重んじて生活を送ってきたように思われます。世の中を本当の意味で動かしてきたのは、時の権力者ではなく、市井の名も無き人々の行ないが紡ぎ出してきた歴史そのものであろう。かかる意味あいにおいての歴史の見方として「社会史」という側面から研究されたのが、ヨーロッパ研究の阿部謹也氏や良知力氏、日本中世史等の研究の網野善彦氏等であった。権力者の立場からでは無く、民衆の立場から基本資料を厳密に調査研究の上、「社会史」と言う立場から民衆の在り様を浮かび上らせてくれたのである。その底流に流れているのが、仏教や儒教や古来から日本人の中に育まれて来たものが「陰徳」のおしえである。

 「陰徳」について最初に名前が浮かぶのが山本玄峰師である(1866年〜1961年)。この近世不世出の人師である臨済宗の大徳は、常に陰徳(人に知られないようにひそかにする善い行い。あるいは、善い行いをしても、人に吹聴することのないこととされる。)を説かれた。師の説かれたる陰徳は、中国の『淮南子』人間訓に説かれるような、人知れずよいことを行う者には、必ず目に見えてよいことが返ってくるということ(陰徳陽報)ではなく、無私の思いで人の為に尽くし、自身の徳を積む為にただひたすらに行う善行なのである。このことを、山本玄峰師は、人としての「性根玉を磨け」と示されておられた。師の厳しくも暖かく広い心性は、世の多くの人々を引きつけ、一般大衆から経済人、政治家、軍人までがそのお人柄に心を寄せられたのである。『回想―山本玄峰』(玉置辨吉編著<春秋社>)にその一端が記されている。中に、玄峰老師の弟子として、何度も一喝を喰らわされ、師の入寂の半月前にも、皆の面前でこっぴどく叱られましたと語られた通山宗鶴老師も、後進を指導する立場になられても便所の掃除をなされたとのことである。また玄峰老師の思い出として、編著者の玉置辨吉氏は、老師に、人の悪い癖を直したいと思ったならば、まずその人のよいところを賞めてやり、人としての信頼関係を築いてから、その人の欠点を直すようにもってゆくことの大切さを諭されたとのことである。そして、何事も愛情が第一であることを教えられ、「人の知らないところで徳を積む。人の知らないときに、便所の履物をなおしたり、玄関のスリッパをそろえたりすることは、陰徳を積むことになる。人間は、陰徳を積まなあかん。そして、自分で、それを実行して、自然に身につけるようにすることだ。」との教えをさずけられ、老師が常に言っておられたことを銘記されておられる。「力をもって立つものは力によって滅び、金で立つものは金に窮して亡ぶ。ただ、徳あるものは永遠に生きる。」との言である。出家僧としての当然の在り様を、陰徳という至言をもって、開祖ブッダに通ずる深さと重みをわたしたちに示していただいた訳ですので、わたしたちも、世の中を良くするため、少しでも自分に出来る善い行いをしたいものです。天台宗で言うところの「一隅を照らす」の精神に思いを至らせてくださる、山本玄峰尊師の生きざまに触れることは、とてもわたしたちの人生を豊かにして下さるものと信じており、唯々、常日頃より深謝申しあげる次第です。

 自分さえ良ければという、世界の国々も、日本の人びとも、我利我利亡者の気を有しつつある現代の人々に、次の文言を呈します。一九二十年に、ドイツで発刊された『パパラギ』というサモアの酋長ツイアビの演説集の中の一節である。

 「熟せば ヤシは葉も実も落とす

 パパラギの生き方は

 未熟なヤシが 葉も実もしっかり

 かかえているようなもの

 「それはおれのだ!

 持って行っちゃいけない

 食べちゃいけない!」

 それじゃどうして 新しい実がなる?

 ヤシの木のほうが

 パパラギよりも ずっとかしこい

  ※「パパラギ」とは、サモア語で、空を打ち破って来た人、と云ひ、ヨーロッパ人を指す。

 合掌

 <令和3年7月18日>


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