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観音講便り


第77号 「どんな時にも前向きに」

2021年10月02日 11:47更新

 コロナ感染に日本全土が萎縮しているこの頃、大変生きづらさを感じるようになっております。忍耐することが苦手な現代人にとっては尚更のように思われます。このような状況下にあって、わたしたちが参考とすべき事例について言及させていただきます。

 一、「アイヌ人物誌」(松浦武四郎著〈平凡社〉)に見られる老女の生命力

 北海道の石狩川筋にある深山に一已(いちやん)という部落があった。江戸の安政年間の頃ヤエコエレという老女が住んでおり、齢八十前であり、左の眼は、山に入った時に大きな枝が刺さって見えなくなっており、腰も二重に曲って、杖にすがらねば歩けぬというありさまであった。ヤエコエレには、二人の娘があり、それぞれに聟(むこ)を迎え、二組の夫婦の間には四人の男の子がおり、仲むつまじく暮らしていたのである。ところが、当時の和人(アイヌ民族に対して日本人を指すことば。)の多くがアイヌの人々に対して横暴な振る舞いをしていたのである。聟を遠方の漁場に行かせ、その妻を自分の漁場に一緒に連れていって妾としたり、残された夫婦は一緒に同じ漁場に連れていかれ、五年経っても十年経っても一已に戻されることは無く、四人の孫たちも、大きくなり山仕事や漁場に働らきに出されたが、やはり老婆の世話のために戻ることが許されなかった。残されたヤエコエレ婆は、近所の同胞から米やたばこや魚等をもらい受けて生活していたが、一已の部落の多くの人々も漁場に出されて、その時に残された二軒の家も老婆だけとなり、食を恵んでくれる人も無くなり、家も腐朽してきたので、この里での生活に見切りをつけ、家を捨て、鍋一つ、鉞(まさかり)一挺を携えて、安政四年の四月頃に山に入ったのでした。そして、ウバユリやエゾエンゴサクなどの球根やセリ科のエゾニュウやハナウドなどの茎をとって生命をつなぎそれらも枯れ果てたときは、わが身も死ぬものと覚悟して深山に分け入ったのである。そして、とある大木の根もとが朽ちて穴があいたところを終の棲家としたのである。その後、親切な船頭が、和人に梅毒をうつされたヤエレシカレという三十前後の女性を連れてきて簡略な小屋を作ってくれた。石狩川に探索に出向いた松浦武四郎は、ヤエコエレの話を聞き、彼女を訪ね、米、たばこ、針などを与えて去っていったのであるが、時の箱館奉行の耳にも達っし、奉行みずから多くの玄米を与え、ヤエコエレの妹娘シトルンカの一家をして、その時ヤエレシカレは亡くなっていたが、ヤエコエレと同居していたセシルエも併せて面倒を見させたのである。一人の人間の生きる強さについて考えさせられる話である。

 二、メキシコのフリーダ・カーロの矜持

 フリーダ・カーロは、メキシコの女性画家であり、女性として男性と同等であるとの矜持をもって生き抜いた方であった。生まれつき病気があり、病魔との闘いの連続の一生であった。原因としては、ポリオとも脊椎の形成不全とも言われる。そして思春期には、バスに乗り合わせて、そのバスが路面電車と衝突したことにより骨盤の上あたりから腹部に鉄の棒がつきささったり、腰椎や右脚の骨折等におそわれることにより、一年以上の入院生活を余儀なくされた。メキシコ芸術界の大立者ディエゴ・リベラとの結婚生活も夫の浮気などで精神的に悩んだり、自身も右足の指を切断したり、何度かの流産も経験し、最後には右脚を切断し、一年後の一九五四年に四十七で亡くなったのである。かかる困難に正面から向き合って常に前むきに進んだフリーダ・カーロの生き方は、わたしたちに勇気を与えてくれるのである。

 合 掌

<令和3年6月18日>


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