一、創立時代の円城寺

開山朝満上人

 霊椿山円城寺は天台宗の古刹(こさつ)で、千年の伝統を保持し法灯絶ゆることなく今日に及んでいる。
 寺伝によると、今より凡そ千年の昔、朱雀天皇の御代(九三一〜九四五年)に開かれた勅願の霊場で、開基は朝満上人である。朝満上人は、河原氏を姓とし、中納言正忠を父とす。上人は、性聰敏、世塵をさけて醍醐寺に入り理源大師に師事された。清修、功成り、ひろく衆生に慈悲をたれて教えをひろめておられた。勅願によりあらたに寺院造営の志をたて、勝地を巡見してここ三瓶山の麓、甘屋(あまや)の地に錫杖を留められた。

山号の由来

 時に、老翁がきて告げていうに「これより北、溪水を渡ると霊地あり」と。上人はその通り進み、山道に入りかづらをたよりに急坂を登り峯についてみると谷間に一すじの滝がある。風声水音、耳根を洗い、閑雅幽邃、上人はしばしこの静寂さに心をうたれていたが、所持する椿杖を虚空に投ぜられ「われもしこの山に開基の因縁あらば、この投ずるところの椿杖は、まさにのびさかえるであろう」と、呪願して去られた。
 それから、備前を巡歴し、笠を金山寺に投じ、数年を経て再びこの山に来て椿杖を探し、根は深く張り枝葉茂っているのに感激し「わが昔、願うところの如くなり今、満足す」と、それより妙文を唱えて、自らいばらを切り開き、荒土を開拓して寺院建立の基礎をつくられたのである。こうして、営構落成し、円城寺は開基され、椿杖の霊木にちなんで霊椿山ととなえることとなったという。

本尊千手観音

 御本尊千手観音は、行基菩薩の御作と伝う。千手観音は、千の慈眼、千の慈手を具として衆生を済度される菩薩である。千手というは、菩薩の手の及ぶ範囲が広大で、その方便が無量であることの象徴であると。
 わが国の千手観音の像形は十一面四十二臂、二十四面四十二臂、十四面十八臂、等種々ありといわれている。
 千手というも千本の手があるのでなく、中央二手の外に左右各二十本づつの四十二手像が普通で、この一手がよく二十五有界の衆生を救うため、四十手を二十五倍し千手とよぶのである。
 この一手ごとに一眼あり千眼という。十八臂にも仏教的解釈がつけられている。
 当山の千手観音は、秘仏で、三十三年毎の開扉供養が行われる例となっている。

天府

 当山の前面−南方の小峯を天府といい、開基当時十二神将降臨の地と伝えられている。密教では、十二天にいます神将を仏法の守護神としている。

翁石・媼石

 創立当時、麓に信心深い年老いたるぢぢとぱばが成仏して霊石と化したという伝説がある。
 観音堂創建の盛儀を拝したいものと思いたち、「たとえ、半途にして死して土石となってもよい」といって、村人のとむるをもきかず老体の身で急坂を登るが、途中、気息絶え、骸骨たちまち石と化したという伝説である。
 今も、この霊石−翁(おきな)石・媼(おうな)石は境内にあって、開山当時の民衆の深い信仰を伝えているのである。

甘屋のいわれ

 この野城の地を、昔、甘屋(あまや)といっていた。
 文徳天皇嘉祥三年、川合郷に甘露(かんろ)降り、これを朝廷に献じた(文徳実録)
 これによって、この地を甘屋というに至ったと伝えられている。甘露とは、甘味の液汁で天下泰平の時、天その端祥として降らすといい、仏教ではこの液は、苦しみを去り、長寿、死者復活の力がある霊液なりといっている。

大田市唯一の天台宗寺院

 開山当時を総合して一言にしていうならば、すべてが神秘的であるということである。ここに、山霊に接して修法が行なわれた山岳仏教の特長があるといえよう。
 天台真言の平安仏教は、高度な教理とそれを実践する伝道によって、豪族や民衆に信者を得て、天台宗は東国に真言宗は西国に普及したといわれるが、今日、石見に現存する天台宗寺院は、当山と津和野町の最勝院の二寺だけである。(真言宗寺院は大田市に九寺あり)。ここに円城寺開山の意義の深さがある。
 次の中世の室町時代には、神仏習合による民衆化−円城寺の隆盛時をみるのである。


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