二、中世の円城寺

蔵王権現

 円城寺では、本尊守護のために蔵王権現を奥の院にまつった。本堂の奥、一段と高い境内に拝殿があり、それより数十メートルの石段を上ったところに権現社がある。神社に神宮寺があり、寺院に権現をまつることは、神仏習合時代の習俗で、権現は、仏がかり(権)に姿を神に現じたものと信じられていた。この権現社は、法印の管掌するところであって、石段の下方に「祝詞(のりと)石」が今もあるが、これより上は社家の上ることを禁じていた。表面に「従此石到社前社人不上旧例也、衆徒謹書」と刻まれてある。

仁王門

 表面の左右に仁王尊を安置する。仁王尊は金剛力士で、浄域を守護する。急怒の形想は、力感に溢れ、名実ともに仁王の神髄を具現している。現存の仁王像以前のものと思われる仁王像が、近年、祖式の円福寺にまつられてある。当山から石見銀山の長楽寺に移り、それから、明治十年に円福寺におさまったという。尊像を解体修理したところ、永禄九年の奉納文があり、これによって、下総国仁担という僧が禅定という尼僧の菩提のため、鬼村(大屋町)の大工に作らせたことがわかった。なお、大田城主佐和奥連の名も読みとれたということである。現存の仁王尊像は何年の作か不明。
 現在の仁王門は昭和八年再建されたものである。

四十八坊

「往古は四十八坊あり、字円城寺一円小屋原池田多根市野原及び大田町の一部にわたって寺領三千石を有せしが、尼子合戦の際兵火にかかり、あまつさえ寺領を減ぜられ今はただ円城寺一坊を有するのみ」と安濃郡誌にみえ、
 市野原の円立寺、川合の福城寺(福城庵)
 同浄光寺(浄光院)も四十八坊の一であったと伝えている。さらに地名に寺坊の名を存するものとして、
 野城に西林坊、良西坊、寂光坊、円城坊あり
 多根に至伝寺、小屋原に坊の前、等が記されてある。以上は安濃郡誌によるものであるが、現在、多根の土地台帳の地名中に
 金正寺、観音寺、地化庵、高林坊等がみられる。すべて、円城寺四十八坊と関係があるか不明であるが、寺名を地名とするものが多いことに関心がよせられる。

盛時の壮観

 開山以来、石東における天台宗の大寺院として隆盛を極めたことは、「蔵王権現仁王門四十八坊」が安置奉祀されていたことから感ぜられるのであるが、古伝の円城寺記には次のようにまとめて記されてある。
「根本堂千手観音、鎮守蔵王権現はこの山に垂迹。薬師堂・大師堂・鐘楼・経蔵・東大門・西大門等、地勢に応じて山々谷々に建ち並び、聖坊十二、僧院四十八をかぞえるほど宏大な寺院であった。寺の建物は、紺色の軒先に朱色の屋根が光り輝き美をつくし、建物は廊下でぐるぐるとつらなり、山は高く、眼下に三瓶川の渓流を見下し、遠く三瓶山や鶴降山が雲霞の間に望まれ、まさに天下の絶景なりその壮観いわん方なし」と
 これを読むと、お経の声と香(こう)のかおりがただよう一大寺院文化団地ともいうべき霊場が、こ
のわしの峯を主峯とした山々谷々に現出していた中世の隆盛がしのばれるとともに、創立開山以来、この霊場に入って修験道を修行し悟道に入らんとした山伏の熱烈な信仰の姿が想い起されるのである。

兵火に罹る

 中世室町の世まで隆盛を極めた円城寺は、戦国争乱の世となり、毛利尼子の両雄による銀山争奪戦にまきこまれ戦場と化し、全山兵火にかかったことはもったいない極みである。円城寺記に次のように記されてある。

 往比、当国佐波の領主某、これが檀となり帰敬鄭重にして斎田若干を寄進す。甘屋坂本市野原の租税なり。今は即ち公税にして、民家の有となれり。香積(寺院の台所)を賑わし供田役田をわかちて法令厳重なり。つぶさに玄澄法師の残せる掟状あり。今ここに記さず。然るに毛利元就候 自ら江河先陣の勇敢を募り、佐波氏の家運つく。ああ何の因縁ぞや。追討の日、劫火に罹りて梵閣数宇、詔書、旧記、一炬に焦土と化す。それより七国争雄の日、三軍馳場の時に及び、寺産ようやく央ば失う。今境内山林麓下の田園百分の一を存す。ああその祖や業をはじめ統を垂れ、継ぐべしとなす。然るに乱臣賊子、その統を乱しその緒を失いその基を失う。あに痛惜せざらんや。古、言う。創始実に難し、守成易からずと。信なるかなこの言や。仏寺の世故と相関せざるがごとき者も亦然るなり。

 これによると、佐和氏の崇敬が厚かったこと、毛利軍に攻められし炎上したことがわかる。「佐和氏の家運つく」とは大田城山の佐和奥連のことと考えられる。時は永禄年間か(四百年前)。大田城は小笠原氏に攻められ落城し、佐和氏は小笠原に降り、一時小笠原氏は大田城を領有するが、毛利氏は、大田城や円城寺を攻めて、小笠原氏に代り大田城を領有する。これによって、佐和氏と円城寺との縁もたち消え、円城寺は戦火をこうむると、このように解せられる。
 さらに、修験道場であった当山には、四十八坊の僧坊に多数の山法師もいたから、円城寺に僧兵五百という昔話も、数に多少の相違はあっても考えられることで、本山延暦寺やその他天台の寺院に僧兵がいたことも事実で、それは戦国の時代の姿であったのである。
 次の関係史実と、佐和奥連と祖式円福寺仁王像の記録等から、この合戦は、永禄年間(元年〜九年)とみることはどうであろう。

 現在、円城寺境内に宝篋印塔碑数基(写真参照)が一ケ所に集められまつられてある。この外、山谷の間に当時の遺跡とおぼしきものが、今後、発見されることもあろう。この合戦悲史は、次の世代に伝えられ徳川の世となり法灯絶ゆることなく、寺は複活するのである。


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