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観音講便り


第72号 「世の中を良くする自己の在り方」

2020年04月12日 21:37更新

 今日、世界において見られる民主主義の在り方は、その根底を支える民衆であり、有権者である個々人の在り方が、常に変化しており、不特定多数の人間の欲望が複雑化しているので、1989年に、すでに矢野暢(とおる)氏が指摘されておられる通り、衆愚の在り様を示しているのでは無かろうか。矢野氏は、政治学者の立場から、「民主主義は、不特定多数の「衆」に主役性をふりあてる政治である。それでいて、政治責任は、特定の政治家がとらされる仕組みになっている。・・・そのように、「衆」の政治は、実に不安定な均衡のうえに成立しているのである。「衆」が匿名の集団性の原理におぼれたときには、政治の質は、たとえ民主主義の制度のもとであっても、まちがいなく堕落する。ところが「衆」がなんらかの良識を共有し、微妙な良質の政治感覚で動いてみせるとすれば、民主主義はすぐれた実質をもちうる。「衆愚」という言葉の対語として、私としては、「衆賢」という言葉を用意したい。」と述べておられる。唯、政治は、きれいごとばかりでは済まない「必要悪」も求められてくるから、衆愚か衆賢かは、「衆」の一員であるわたしたち一人々の在り様にかかってくるように思われます。

 かかる時代にあって、情報の汎濫にさらされているわたしたちは、今一度、「真の自己」ということについて考えてみることも有用なのではなかろうか。プッダは、それのみで単独で存在する自己や「万物に内在する霊妙な力」としてのアートマンとしての本体としての自己は否定されましたが、無常の存在として、他の存在とつながりを有し、自己を浄化することにより、この世の苦しみをのり越えてゆく主体としての自己の存在は認めておられます。自己を愛し、自己を大切にすることについて、『ウダーナ』の中に、コーサラ国王パセーナディと妃のマツリカーの対話を通して見ることができます。王と妃は、それぞれが、この世の中で、もっとも愛しいものは、自分自身であると述べた上で、ブッダのもとに赴いて、このことについて尋ねると、ブッダは、「心のなかでどの方向に探し求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見いださなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それゆえに、自己を愛する人は、他人を害してはならない。」と答えられたのである。「自己を愛する人は、他人を害してはならない。」という言葉は、非常に重いものがあります。人間は、千差万別で、容姿や学識や生活能力等、一人々皆違っています。又、一人の人間として、病気がちの人、身体の不自由な人、社会の中で生きづらい人等の方々もおられます。犯罪に手を染める人もいるでしょう。このような人々の中にあって、厳しき社会生活を送る上で、本当に自己を愛しいと思うことは、そんなに簡単なことでは無いように思われます。どうしても、わたしたちは、人と自分を比較して見ることが多いように感ぜられます。そうすると、他人に自分の人生を振り回されることも多くなり、自己卑下を招くことも多くなるように思われます。ですから、経典の中に、自己を護り、愛しむことについて、次のように説かれるのです。「愚かで知慧のない人は、自己に対して仇敵のごとくにふるまう。」とあり、「たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ」という、時には毅然とした態度が求められる様ないましめも求められております。そして、「自己を護る人は他の自己をも護る。それゆえに自己を護れかし。〔しからば]かれはつねに損ぜられることなく、費者である。」とも説かれており、利己的な我執(自分一人さえ幸せであり、富があり、名声があり、社会的地位がありさえすれば、他人はどうでも良いという誤った見解。)から離れるために、自己を護るのである。世の中の一人一人が、このように自己を護るため、自分自身の欲に打ち克ち、つねに行ないをつつしみ、自己をととのえることが出来て、初めて自己こそ自分の主であると言えるのである。このような自己の主体性を持つ人々が増えることにより、民主主義の在り方は、数の力のみに偏る悪弊から脱却できるのではなかろうか。「衆感」が「衆賢」に変わる深いおしえを、「ブッダ」の始められた仏教(ほとけのおしえ)の中には、無数に存在すそれは、一人の幸せはみんなの幸せ、みんなの幸せは一人の幸せという共通理念が、全てのおしえに流れているからである。

 合 掌

<令和元年11月18日>

☆参考文献

 「ブッダの人と思想」NHK B00KS 835

 「衆愚の時代」矢野暢著〈新潮社>


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