住職の論文集
松田義光住職の論文を掲載しています。


幸福の入り口

 日本では、十年以上にわたり、年間三万人を超す自殺者を出している。
 駅で列車を待っていると「○○駅で人身事故のため、遅れが出ています」というアナウンスをしょっちゅう聞くようになった。かつてなかったことである。昔は、鉄道自殺があれば、誰しも自殺者がおかれた悲惨な境遇に思いをいたし、あわれに思ったり身震いしたものだが、今ではホームにいる人々は「またか」という反応でしかない。
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施餓鬼は布施の浄行である

「序」
一、現在行われている施餓鬼法要は、『焔口餓鬼陀羅尼経』の焔口鬼と阿難尊者との因縁によるものである。・・・余命三日しかないと、口中に焔を生じ、針の如き細き首でおなかのみ膨れた餓鬼に告げられた阿難尊者が、ご自身の延命と餓鬼の救済の為に、百千万の餓鬼と百千の婆羅門仙等に、加持飲食陀羅尼の功徳により不足すること無く飲食を施して死を免れたと、説かれている。
 これにより、「施餓鬼法要」を行う善根により、私達の滅罪、息災、追善、延寿、得楽も願うものである。
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法燈1200年とタッチ′サ象

 青春マンガのタッチ=iあだち充著) が、単行本として四、五〇〇万部を売り尽したということは、八十年代の若者の心情が豊かであることを再確認する上で貴重な出来事であるように思われる。
 少なくとも、数年前のヤマトブーム≠竚サ在のオニャンコブーム≠フような浮わついた中に意図されたブームでは無く、若者達が内面的に共感を求める中に生じた自発的なブームであるように思われる。
 多様化の時代と言われる八十年代後半に、「あきらけく後の仏の御代までも」と、燈された法灯を護持・敷衍すること「一、二〇〇年に及ぶ比叡山並びに天台宗の末席に列なる身として平素心に思っている一端を、伝教大師のお言葉に寄せて述べたいと思います。
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一事を行ずる眼

 私が、「行一事」なる言葉を意識の外に、持つ様になったのは、自分自身の生き方に悩んでいた、二十才頃のことである。
 それ以来、特に僧侶になってからは常に「一事を行ずる。」とは私自身にとってどの様な意味を持つのかと考える事が多くなった。
 今考えて見るに、人間生きている以上、それぞれ個人の生活は各各が独力で切り開いてゆかなけれはならない。
 社会生活の中では、他人と協調してゆかなければならぬという厳しい現実の中で、社会的存在として、各個人が出来得る範囲で対社会的に意義のある、一事を行ずることが出来れば、それが 「照于一隅」の精神に連なるものではないかと思われる。
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