住職の論文集 本文へジャンプ
法燈1200年とタッチ′サ象

 青春マンガのタッチ=iあだち充著) が、単行本として四、五〇〇万部を売り尽したということは、八十年代の若者の心情が豊かであることを再確認する上で貴重な出来事であるように思われる。
 少なくとも、数年前のヤマトブーム≠竚サ在のオニャンコブーム≠フような浮わついた中に意図されたブームでは無く、若者達が内面的に共感を求める中に生じた自発的なブームであるように思われる。
 多様化の時代と言われる八十年代後半に、「あきらけく後の仏の御代までも」と、燈された法灯を護持・敷衍すること「一、二〇〇年に及ぶ比叡山並びに天台宗の末席に列なる身として平素心に思っている一端を、伝教大師のお言葉に寄せて述べたいと思います。
 伝教大師の御臨終のお言葉の中に、
 「我が滅後に皆な俗服も着する こと勿れ。」
と、あるのは、諸先徳のお説の通り、墓を作ったり、服喪に時間を取られ、徒らに思い煩らい修行をおろそかにする非を戒められたのではなかろうか。
 このことは、既にブツダがその布教活動の終焉を迎えるに当たり懊悩する弟子達に対して、
 「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しておれ。」
と、諭され、
 「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい。」
と、最後のことばを残された中に、弟子達に修行者としての厳しい自覚を求められた態度に通ずるものを感ずるものである。
 次に、伝教大師の御遺言の中に、
 「我れ生まれてより以来、ロにソ(「鹿」3つを組み合わせた文字)言無く手に苔罰せず。今我が同法、童子を打たずんば、我が為に大恩なり、努力めよ努力めよ。」
と、あるは、小僧の心の中に永い間ある種の疑いを抱かせ続けてきたものである。
 それは、童子を打たないことがどうして伝教大師をして、我が為に大恩なり≠ニいわしめるのであろうか、ということである。
 このことについて卑見を述べたく思いますので、諸賢の真俗におかれましては、ご高見ご批判を賜りたく存じます。
 伝教大師とほぼ同時代に成立したとされる『日本霊異記』の中に、自度の賤形の沙弥を刑つ等の話が見え、乞食をしながら人々に依って笞打たれる自誓受戒の沙弥が多かったことが推察され、後の『信貴山縁起絵巻』に見受けられる僧侶の従者の中に、成人の童形の者が童子の姿と共に見い出され、それぞれ大童子・中童子と称されるのであるが、これらの童子は、絵巻の時代には下人として見下されることが定着していたようである。
 尚、『延喜式』巻二十一に、
 「凡僧正從五人。沙彌四人。童子八人。大少僧都各從僧四人。沙彌三人。童子六人。」
と、あり、延喜年間には、従者としての童子が存在しており、各米一升二合、塩五勺を給付されていたのであるが、この記事に見える童子と『信貴山縁起絵巻』に見られる童子とが同じものであるかどうかは別として、僧侶に従う者としての童子は存在したのであり、弘仁年間にありても、僧侶の従者としての童子が存在し、僧侶は官許の者であるから、童子を見下す中に於いて、世俗の風に倣って笞罰することが比叡山に在りても行われていたのではなかろうか。
 少なくとも、『梵綱戒経』によって大乗戒壇院を建立することに生涯をかけられた伝教大師の御心の中には、巷で乞食しながら修行している真の自度の沙弥の存在をも覚知されておられたのではあるまいか。形式化により硬直してしまった感のある南都の、というよりも全仏教の基たる小乗戒に決別して大乗戒を標榜された伝教大師の心底からの叫びと受け取ることは借越に過ぎるであろうか。
 しかし、五逆罪を犯せし提婆達多も成仏できると説く『法華経』と自警受戒をも認めて高い精神性を持った『梵綱経』を根幹に据えられた伝教大師は学問より修行を重んぜられた人である、かかる人師が大恩なり≠ニ発せられた重さを真に理解し、体得された同法は少なかったのではあるまいか。
 『スッタニパータ』の第一蛇の章の中に、究極の理想に通じた人がなすべきこととして、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であり、他人に苦痛を与えることも望んではならない等のことが説かれ(慈しみ)、第二小なる章の中に、怠りは塵垢である。怠ることによりて塵垢がつもる。つとめはげむことによって、また明知によって、自分にささった矢を抜け(精励)、とも説かれていることを思う時、伝教大師の体得されたブツダの教えの深さを改めて思わずにはおれない小僧には、努力めよ努力めよ≠ニ諭された中に、慈悲の極みを感ずるものである。
 大同五年より弘仁九年にいたるまでの間に都合二十四人が得度したにも関わらず、佐山のものは十人にすぎない有様であった年分度者の離散を防いで教団の永続を確保しょうとする大乗戒壇建立の大業が進捗せぎる中に於いて、臨終の言として残された我が同法≠ニ努力めよ努力めよ≠フ持つ重みは、我が志を述べよ≠ニいう天台円教弘通に不惜身命たる覚悟を持って、忘己利他なる慈悲を行ずる菩薩僧を理想と為す『山家学生式』(六条式)の理念に帰結するのではなかろうか。
 「未来際を尽すまで恒に仏事を作さんことを」
と、誓われた伝教大師のご意志に随えば、八十年代の混迷の中にあって進むべき道を模索している俗染の小僧も我が同法≠ニ呼びかけられたる学生の一人としての自覚を持たなければならぬのであろうが唯々低頭汗顔を致すのみである。
 『文徳實録』巻十の天安二年八月十日の別当大師光定の卒する記事の中に、
 「叡山最澄大師。心持慈悲。傳止觀宗。」
と、あり、又、
 「帝聞光定在山。資用絶乏。別賜乞食袋。濟山中之急。‥‥‥中略‥‥‥光定為人質直。不事服餝。帝ス其質素。殊加隣遇。」
と、ある文に接するに、草創期に於ける比叡山の置かれていた状況が如何に妥協も許されない厳しいものであったかを推察するに余りあるものを感ずると共に、徳一法師や道忠法師、広智等の会津や関東に於ける布教活動と、伝教大師との深いつながりを思う時、如何に多くの民衆が忘己利他の精神を以って天台円教の弘通の為に尽力したかは、歴史の表面には現われてこないだけに、伝教大師の活動の裏に影としておぼろげながら見えて来ないだろうか、『一八四八年の社会史』という本の中の、
 「いつの世でも、そうなのだろうが、人間の歴史を底から支えてきた人々は、いつも黙って生き、黙って死ぬ。もしできるなら、その人たちの生きた姿も描いてみたい。ただし、その姿は直接資料の文字には現われてはこない。」
と、いう文章に接した時に、我ながら胸を打たれ、童子を打たずんば、我が為に大恩なり≠ニいうご遺言に重なってくるのを覚えるものである。
 一切衆生悉有仏性≠眼目とする『法華経』を、理論に偏らず、体現の心眼をも併せ持って理解するならば、童子も、名も無き衆生(民衆)も、皆伝教大師と同じく成仏の浄業を行ずる天台止観法門円成の志を同じくする同法と感ずることによって、八十年代の現代に於ける浄仏国土の機縁と為すことができるであろう。少なくとも、一二〇〇年の大慶の年をたんなる法式のお祭りにのみ終わらせてはならないのである。
 最後に、「忘己利他」についての小僧の考えていることを申し述べ、タッチ≠フ世界に言及して見たい。
 昨年十月に一人の放送作家が亡くなった。植木昌一郎という人である。その名は知らなくても、葉村彰子の名で世に送り出したTV作品は、大多数の人々に知られているものである。助さん格さんを伴って世直し旅をするひげのおじいさんの物語りである。植木氏は、全く表に出ることなく黒子役に徹して私達を楽しませてくれたのである。氏の生き方の中に忘己利他の精神の発露を見る思いがするのである。
 忘己とは、黒子役に徹したその生き方にではなく、放送作家として卓越した時代考証の実力を下地に、持てる力を傾注して良い作品を残したことに於いて考えられなければならないのである。忘己とは、己を忘れるという無私の行為のみに考えられがちであるが、自分自身の持てる力を最大限に活用する為に精一杯努力することが即ち他を利することになる一隅を照らす生き方の中に認めることの方が現実的であるように思われる。
 かかる意味あいに於いて植木氏の生き方を忘己利他の発揚と見るわけである。
 社会の種々相に於いて、自己を愛すると同じように、他を愛する心の中に慈しみの思いを生じ、慈悲を行ずる中に見い出されるものが忘己であり、決して自分の義務を放棄してまで他に尽すことではないのである。
 かように考えれば、
 「ねがわくば 妙法如来正遍知大師のみ旨 成らしめたまえ」
と、詠じた宮沢賢治の生き方は、余りにもストイックな為に、凡人には近ずき難い理想的な生き方として、愚鈍なる卑憎の内側に存する怠惰の念に常に慈悲の息吹きを送りつづけてくれるのである。
 重要なことは、釈尊が、法を拠り所と為し、自身を拠り所と為せ″と説かれたる如く、仏法を信ずるも、慈悲を行ずるも、畢竟、個々人の一念の然らしむるところであるから、常に自己の心と向かい合う中に、現在生きている時代の相をしっかり見据えた上で、自己を確立する為に何を行じ、その行ずる中に慈悲の光明を見い出すには何が為されなければならないかを真摯に追求することであるように思われる。
 ともすれば、教団という名のエゴで仏教の本質からはずれがちな現代の各教団にあっては、「水戸黄門」の影としてその生を全うした植木氏や、「つらくあたられたうらみを、うらみとして返すのではなく、孝行することにした。」と、言い放った中国人に養われた戦災孤児の馬茄鳳さんの心の中に脈々として流れている真理の光りに思いを致すべきである。
 一、二〇〇年というが、仏法の大海は、天台の教えは、そのような人間の限られた空間をはるかに超えたところに永遠のメルヘンとして存在しているのである。唯、仏法として具現化されたる法は時代の相を離れては存在し得ないのであるから、私達の生きているこの八十年代には、八十年代に即した仏法の相があるはずであり、慈悲と忘己利他という真理は不変なるも、その具現に於いては、宮沢賢治と私達には違いが存するのである。少なくとも、寒さの夏にオロオロ歩くことはあっても、娘を苦界へ身売りするような時代では無いのである。
 宗教の自由を生かす為には、日本人の自立心は余りにも弱く、その弱さが経済発展の為には強味となっている矛盾した世の中にあって、母親は子供の自立を、時勢の趣く所に流きれて知らず知らず妨げ、学校は内外による締めつけによって硬直化し、NHKでさえそのスポーツ報道の在り方が民放的になって釆ている八十年代にあっても、甲子園は、高校野球を語る上で、目標ではあっても目的では無いことは変わりが無いのであり、目的とする人々が存することによって巨人の星≠竍ドカベン≠ェ受け入れられて来たのであるが、現代は、山際淳司氏の指摘する如く、高校野球を目標の一つと捉える冷静な目を、少なくとも若者の中に持つものが増えているのである。大騒ぎをする周囲をよそに、甲子園で多様な姿を見せる選手達の在り様は歓迎される方向へ進んでいるように思われる。
 このような若者の静かな心の変化の反映としてタッチ″が世に受け入れられ、四、五〇〇万部を売り尽すブームにまでなったことを無視しては、布教が出来ないところまで時代は変化してきているのである。
 今の日本は、自由な世の中でありながら、おしつけの自由である為にとまどっている大人達をしり目に、しめつけられながらも、本当のやさしさを求める若者の心の向う側に果てしなく広がっているのがタッチ≠フ世界なのであると、山際氏の喝破された如く、八十年代の若者は、少なくともその内面の奥底にメルヘンの柔かい心を宿しているのである。
 「一、二〇〇年の大慶の年にあたり、タッチ≠ェ四、五〇〇万部も売れたことに一種の安心感を持つと共に、民衆に於ける仏教の受容と自由が、民衆自身の闘いの中に於いて獲得されたもので無く、与えられた面が強いので、未だに仏教の教えを消化しきれないで、この情報社会の中で右往左往している現実を前にして、改めて天台宗とは、伝教大師とは、仏法を弘めるとはどういうことなのかと自問自答する中に、童子を打たずんば、我がために大恩なり、努力めよ努力めよ≠ニ遺された言葉に一筋の光明を見い出すものである。
 確かに、タッチを愛読する若者や中島みゆきを信奉する若者達の姿の中に、現代に於ける心の豊かさを感じるものであるが、確固たる自己を確立した上での豊かさかどうか、いじめ≠フ問題を思うと考えさせられてしまう。はっきりしていることは、高校野球やアマチュアスポーツを完全に商業ベースに乗せ、教育まで金の成る木にしているこの病んだ世の中に対して、覚めた眼で無言の抵抗をしている若者達の象徴が、達也であり、南であるということである。
 タナチ≠ノメルヘンの世界を求める若者は、決して新人類≠ニ呼ばれる理解しにくい存在ではなく、今の複雑でテンポの早い時代の流れの中に於いて、真剣に悩みを抱えながらも安心して相談できる相手を持つことの少ない自己主張の弱い、自己中心の強い存在なのではないかと思われる。
 童子をも我が同法と徹見する中に、法華一乗≠フ根本に流れるブツダより脈々と受けつがれている慈悲を、自身の心の中に自覚すること無くして、老人孤独、偏差値地獄の八十年代の世相に於いて、教団のエゴを押し付ける事なく中道を敷衍することなど及びもつかないように思われる。
 タッチ現象≠ナさえも社会の一面でしかない心の砂漠の広がる現代に於いて、少なくとも私達に出来ることが一つあるように思われる。それはやさしい心持ちに目覚めることである。しかし、そのやさしさは、ロにそ言なく、手に苔罰せず≠ニいう厳しい自戒を内在したものでなければならないであろう

「広報 山陰天台」第38号(昭和62年8月1日発行)