住職の論文集 本文へジャンプ
施餓鬼は布施の浄行である

「序」
一、現在行われている施餓鬼法要は、『焔口餓鬼陀羅尼経』の焔口鬼と阿難尊者との因縁によるものである。・・・余命三日しかないと、口中に焔を生じ、針の如き細き首でおなかのみ膨れた餓鬼に告げられた阿難尊者が、ご自身の延命と餓鬼の救済の為に、百千万の餓鬼と百千の婆羅門仙等に、加持飲食陀羅尼の功徳により不足すること無く飲食を施して死を免れたと、説かれている。
 これにより、「施餓鬼法要」を行う善根により、私達の滅罪、息災、追善、延寿、得楽も願うものである。

二、仏教の善い行いの中でも、ものを施す布施行が第一にとりあげられる。
 この「施餓鬼法要」も、布施の浄い行いの一つであります。しかし、この布施は、心より実践されるべきで、物を投げ与えるような行為であってはならないとされております。
 『大智度論』第三十三に「飲食等の物は布施に非ず、飲食等の物をもって与える時、心中に生ずる法を捨と名づく。ものおしみする心。貪っているばかりいる心とは違うものを、布施と名づく。」とあり、物に対する執着心をなくすことが基底にあります。
 人間、物事に執着すると、正しい判断が出来にくくなり、知らないうちに人を傷つけたりするものです。
 ブッダも、臨終間際に、
「与える者には功徳が増す。心身を制する者には、怨みのつもることがない。善き人は悪事を捨てる。」(『第パリニッバーナ教』第四章)
と、申されております。

「承」
一、布施する行いが、こだわりの心を捨てるための法とすれば、わたしたちは日常の中で、どのような心持ちで生活しなければならないであろうか。
 ここでは、三点にしぼってお話しさせて頂きます。
 始めに相手を思いやる心、次に自己を愛する心を持つ、最後は生命のつながりに感謝する。以上の三点です。

二、相手を思いやる心について
 「おくりびと」という映画が注目をあびております。日本人ばかりではなく、アメリカの人々にも深い感銘を与えた根底には、相手を思いやる心があるように思われる。
 この死者を思いやり、ご家族を思いやる心の中には、お茶、お花でもって人をもてなす心にも通ずる生命への尊厳の念いが流れているように感ぜられます。
 このことは、まさにこの世の中では、生命に勝るものはなく、生命の尊さにおいては、一切の生物は全て平等であり、尊重されるべきであるという仏教の慈悲の心が生きているということのように思われる。
 映画の原作である『納棺夫日記』にも、「蛆を掃き集めているうちに、一匹一匹の蛆が鮮明に見えてきた。・・・蛆も生命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた。」という表現が見受けられますし、同様な心情は、「手の平を太陽に」の歌や「アンパンマン」の世界にも見受けられます。

三、自己を愛する心を持つことについて
 相手を思いやるにしても、自信が健康でなければなりませんが、たとえ病気をしていても、不自由な身体であっても心がしっかりしていれば前向きに生きてゆけると思います。大変なことですが、各人が、その置かれた状況を丸ごと引き受けて、自分自身であると思いを定めて、愛することができて、初めて人に対して思いやりの心を持つことができるように思われる。
 このことは、『ウダーナ』の中に、コーサラ国の国王パセーナディと王妃マッリカー夫人との対話においても示されております。
 そこには、「自己を愛する人は、他人を害してはならない」とも説かれており、慈悲の教えが強調されております。
 心を開いて他人に心を寄せる一つ屋根の下=iかつてのテレビドラマ)のような生活を送りたいものです。
 アメリカ先住民の言葉に、
「幸せに生きようと思えば、この世の旅(人生)では真に心を開くように努力する。」
とあります。
 又、正直に生きることの痛みを受け入れよとの教えも存在するようです。
 年が寄って、足、腰が弱ったり、痛くなってくるのは、それまで一所懸命生きてきた証であり、勲章なのですから、有森裕子さんのように、自分で自分をほめてあげて下さい。

四、生命のつながりに感謝することについて
 思いやる心の底にある慈悲を考える上で、生命のつながりをしっかりと受け止めることが大切なことのように思われる。
 現在の日本人は、知識は豊かであるが、智恵は乏しいと思います。知識は多くの物事を知ることですが、この知識が、実生活に生かされてこそ、初めて智恵の光が生じて生活を豊かなものにすることができます。一億総評論家といわれて久しい日本には、「論語読みの論語知らず」の人々が多いように思われる。
 生きている実感を持てない現代にあって、生命のつながりを、再び見つめ直す時かと存じます。
 考えるまでもなく、わたしたちは、空気、水、植物、動物、地球、宇宙等すべてが生命の連鎖でもって、互いに影響し合って生きているのが実状です。今ある身を当たり前と受け取るか、生かされていると受け取るかで違って参りますが、やはり生かされていると受け止めるべきかと存じます。ここから、生かされているという感謝の念いが生じて参ります。人間は、存在として孤独では生きてゆけません。唯、心が孤独であると感じているのです。ですから、生かされていることに感謝して、苦しい生活の中でも、心を開いて自身の存在を愛してゆきたいものです。
 山辺習学師が、大衆教化のために仏典の格言をまとめられた『生活のささえ』(三千院門跡発行)という冊子の中に、「悪人の地盤は恩を知らず感謝を持たないことであり、善人の地盤は恩を知り感謝を持つことである。」とあり、アメリカ先住民の言葉にも、「感謝の心こそ他に与えられる最大の贈り物である。」ともあります。
 何はともあれ、日々感謝の念を持って暮らしてゆきたいものです。

「転」
 ここで施餓鬼における布施行を考えますに、餓鬼道は、慳貧の心(物に執着して、ものおしみする心)を有する人が行く道であるとされております。
 餓鬼を供養する法要において、参詣の皆様に、光明供錫杖の会式を通して、仏さま、菩薩様とのご縁を結ばさせて頂き、仏さまと心身を通して交わることにより、功徳を積まれ、日々の生活が安穏であることをお祈り申し上げる中で、皆様に布施の浄い行いを勧める次第であります。
 又、春彼岸に合わせまして、皆様のご先祖様のお供養を通して、報恩行による謝恩功徳をお積み頂く訳でございます。
 因みに、人の道は、世間の楽を欣(ねが)い、自身の欲望に執着して都合の良い考えにこだわりて悦ぶ心で道を行かずとされております。
 物事の本質を見ようとしない人間にとって、自己を愛するということは、ややもすると偏愛と受け取られかねませんが、そうではなく、与えられた生命を自らいとおしむ心持ちでしっかり愛することです。心の底から自らの生命を大切にする人は、決して他人を害することがありません。
『万葉集』(巻20の4346番)にも、
父母が頭(かしら)掻(か)き撫(な)で幸(さ)くあれて言ひし言葉(けとば)ぜ忘れかねつる
と詠まれております。
 改めて生命のつながりを考えますに、天台大師(智ギ・・・中国隋代の高僧、天台山で修行されて天台の教えを完成される)の『摩訶止観』に天竺(インド)の汗栗駄(ウリツダ)を、中国では、草木の心と称すとあり、植物にも心があると理解されておられます。
 又、『菩提心義』には、
「一切衆生、元より真如浄心あり。干栗駄耶(汗栗駄)と名づく。是の心は真実の義なり。諸経論中に此の心を名づけて真如法性と為す。」ともあります。
 熟慮された心を持って、物事の本質を見るに、理念として草や木にも仏性(仏となる性質)があるという思想と、未来より、山や川や大樹等に神のいのちを感じて来た日本人の中に、自然と調和して生きる生活が形成されてきたように思われます。
 木曽の林業に従事する方が、木は倒すのではなく寝かせるという思いで伐採するということを話しておられました。(NHKの番組の中において)このような穏やかな心情が、神道(明治以前の神道、特に古代神道)、仏教、儒教が、受容される時の流れの中で育まれてきたことと思われる。
 月に不老不死の世界を想い、沈みゆく太陽に、極楽世界の存在を想う感性を、現代世界にあっても、より豊かなものにしてゆきたいものです。
 無常の世の中で、より良く生きてゆく為に、人々は、慈悲の心を持って、自分さえよければ何をしてもかまわないという心(癡)を離れ、助け合ってゆくことでしか生命を輝かすことができません。
 慈悲の心を生活の中に生かすために、布施の教えが、六波羅蜜の最初に説かれるのです。

「結」
 相手を思いやる心、自己を愛すること、生命あることへの感謝について話をさせて頂きましたが、最後に、布施の行いは、慈悲にきわまるということをお話しさせて頂きます。
 まづ、布施の行いは、わたしたちの執着する心をなくすると説かれますが、これはなかなか難しいことです。
 どうしても人は、我が子、他人の子、私のもの、他人のもの等、全てにおいて区別する習慣が身についております。
 社会生活を秩序立てるためには区別が必要ですが、この区別が、執着する心により、社会病理ともいわれる不当な差別意識を醸成してきた現実をしっかり見据えた上で、人としてどのように生きてゆくか、じっくりと考えながら生きてゆかなければならないと存じます。このような観点から、心を浄化するということについて述べてみたいと思います。
 親がわが子を愛するのは当然のことですが、我が子に対するように他のお子さんにも接し、一緒に住んでいる犬や猫に対する慈しみの眼差しを、家の外の犬や猫、或いは全ての動物に向けるようにする。
 手をかけている家中の鉢植え、庭の草花に対して感ずる幸福感を、外の野草に対しても、感ずるようになる。
 このような境地まで、自身の心が浄化されて初めて浄行としての布施が完成されるように思われます。
 ブッダがお弟子のアヌルッダ(阿那律尊者・・・目が不自由であった。)に対して、衣を縫うための針に糸を通されて福徳(よいことをしたことによる功徳)を積まれたことが、『増壱阿含経』(31−5)に説かれております。おおよそ次の通りです。
 ある時、悟りを開かれて尊師と呼ばれていたブッダが、針に糸を通されたことに驚いたアヌルッダに対して、ブッダは、「世間において福徳を求めるのは私が一番であり、如来(悟りを得たる者)といえども修行に終わりはなく、布施、教戒(おしえいましめる)、忍辱(よくたえしのぶ)、理法を説くこと、衆生を愛護すること、無上道を求めることの法を説き、福愛の力こそは仏道を成就させる最大の力である。」と説法されたのです。
 このお話から学ぶべきは、日常のなかのなにげない行為にあふれるやさしさ、思いやり、向上のために努力する姿勢かと思います。
 ブッダは、その後生涯を通して布施に代表される慈悲行為を実践されたわけですので、わたくしたちも、この平成の世にあって、できる範囲で布施の浄行を実践してゆきたいものです。
 たとえ、「一切の衆生に楽を与え、一切の衆生のために苦を抜く」(大智度論)という大慈悲、伝教大師の「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり。」という高い理想は無理でも、常に慈しみの心をもってあらゆる生き物をいたわる人、そのような人は、多くの福愛を生じることを信じて、この施餓鬼会が、「この世界は美しいもので、人間の命は甘美なものである。」と述べられたブッダの境地に少しでも近づく機縁となりますようにお祈り申し上げ、お話しを終わらせて頂きます。  合掌

追記
 上述の文章は、平成21年3月16日、青雲山大福寺(前橋市)における「春彼岸施餓鬼会光明供錫杖法会」に際しての、参拝者に対する法話のための原稿に、加筆訂正して新たに文章としたものである。
 布教講演の性質上、参考にさせて頂いた諸先徳の書名等は割愛させて頂いた。
 唯々報恩に対して感謝申し上げるのみである。
  一乗仏子  松田義光 拝