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観音講便り


第78号 「陰徳は日本人の美質であった。」

2021年10月02日 11:49更新

 近頃、よく言われることであるが、日本人は自分の立場や意見をはっきり表明することが少ないと言われる。国際社会にあっては、自分の国の立場を臆面もなく表明し、わがままに振る舞う国が多い中、はっきりと自国の立場を表明することの少ない日本国及び日本人は、他国の人々には理解しづらい国民性にうつるのであろう。

 顕徳の考え方に立つ米欧に比べ、日本人は、美徳とされてきた陰徳を重んじて生活を送ってきたように思われます。世の中を本当の意味で動かしてきたのは、時の権力者ではなく、市井の名も無き人々の行ないが紡ぎ出してきた歴史そのものであろう。かかる意味あいにおいての歴史の見方として「社会史」という側面から研究されたのが、ヨーロッパ研究の阿部謹也氏や良知力氏、日本中世史等の研究の網野善彦氏等であった。権力者の立場からでは無く、民衆の立場から基本資料を厳密に調査研究の上、「社会史」と言う立場から民衆の在り様を浮かび上らせてくれたのである。その底流に流れているのが、仏教や儒教や古来から日本人の中に育まれて来たものが「陰徳」のおしえである。

 「陰徳」について最初に名前が浮かぶのが山本玄峰師である(1866年〜1961年)。この近世不世出の人師である臨済宗の大徳は、常に陰徳(人に知られないようにひそかにする善い行い。あるいは、善い行いをしても、人に吹聴することのないこととされる。)を説かれた。師の説かれたる陰徳は、中国の『淮南子』人間訓に説かれるような、人知れずよいことを行う者には、必ず目に見えてよいことが返ってくるということ(陰徳陽報)ではなく、無私の思いで人の為に尽くし、自身の徳を積む為にただひたすらに行う善行なのである。このことを、山本玄峰師は、人としての「性根玉を磨け」と示されておられた。師の厳しくも暖かく広い心性は、世の多くの人々を引きつけ、一般大衆から経済人、政治家、軍人までがそのお人柄に心を寄せられたのである。『回想―山本玄峰』(玉置辨吉編著<春秋社>)にその一端が記されている。中に、玄峰老師の弟子として、何度も一喝を喰らわされ、師の入寂の半月前にも、皆の面前でこっぴどく叱られましたと語られた通山宗鶴老師も、後進を指導する立場になられても便所の掃除をなされたとのことである。また玄峰老師の思い出として、編著者の玉置辨吉氏は、老師に、人の悪い癖を直したいと思ったならば、まずその人のよいところを賞めてやり、人としての信頼関係を築いてから、その人の欠点を直すようにもってゆくことの大切さを諭されたとのことである。そして、何事も愛情が第一であることを教えられ、「人の知らないところで徳を積む。人の知らないときに、便所の履物をなおしたり、玄関のスリッパをそろえたりすることは、陰徳を積むことになる。人間は、陰徳を積まなあかん。そして、自分で、それを実行して、自然に身につけるようにすることだ。」との教えをさずけられ、老師が常に言っておられたことを銘記されておられる。「力をもって立つものは力によって滅び、金で立つものは金に窮して亡ぶ。ただ、徳あるものは永遠に生きる。」との言である。出家僧としての当然の在り様を、陰徳という至言をもって、開祖ブッダに通ずる深さと重みをわたしたちに示していただいた訳ですので、わたしたちも、世の中を良くするため、少しでも自分に出来る善い行いをしたいものです。天台宗で言うところの「一隅を照らす」の精神に思いを至らせてくださる、山本玄峰尊師の生きざまに触れることは、とてもわたしたちの人生を豊かにして下さるものと信じており、唯々、常日頃より深謝申しあげる次第です。

 自分さえ良ければという、世界の国々も、日本の人びとも、我利我利亡者の気を有しつつある現代の人々に、次の文言を呈します。一九二十年に、ドイツで発刊された『パパラギ』というサモアの酋長ツイアビの演説集の中の一節である。

 「熟せば ヤシは葉も実も落とす

 パパラギの生き方は

 未熟なヤシが 葉も実もしっかり

 かかえているようなもの

 「それはおれのだ!

 持って行っちゃいけない

 食べちゃいけない!」

 それじゃどうして 新しい実がなる?

 ヤシの木のほうが

 パパラギよりも ずっとかしこい

  ※「パパラギ」とは、サモア語で、空を打ち破って来た人、と云ひ、ヨーロッパ人を指す。

 合掌

 <令和3年7月18日>


第77号 「どんな時にも前向きに」

2021年10月02日 11:47更新

 コロナ感染に日本全土が萎縮しているこの頃、大変生きづらさを感じるようになっております。忍耐することが苦手な現代人にとっては尚更のように思われます。このような状況下にあって、わたしたちが参考とすべき事例について言及させていただきます。

 一、「アイヌ人物誌」(松浦武四郎著〈平凡社〉)に見られる老女の生命力

 北海道の石狩川筋にある深山に一已(いちやん)という部落があった。江戸の安政年間の頃ヤエコエレという老女が住んでおり、齢八十前であり、左の眼は、山に入った時に大きな枝が刺さって見えなくなっており、腰も二重に曲って、杖にすがらねば歩けぬというありさまであった。ヤエコエレには、二人の娘があり、それぞれに聟(むこ)を迎え、二組の夫婦の間には四人の男の子がおり、仲むつまじく暮らしていたのである。ところが、当時の和人(アイヌ民族に対して日本人を指すことば。)の多くがアイヌの人々に対して横暴な振る舞いをしていたのである。聟を遠方の漁場に行かせ、その妻を自分の漁場に一緒に連れていって妾としたり、残された夫婦は一緒に同じ漁場に連れていかれ、五年経っても十年経っても一已に戻されることは無く、四人の孫たちも、大きくなり山仕事や漁場に働らきに出されたが、やはり老婆の世話のために戻ることが許されなかった。残されたヤエコエレ婆は、近所の同胞から米やたばこや魚等をもらい受けて生活していたが、一已の部落の多くの人々も漁場に出されて、その時に残された二軒の家も老婆だけとなり、食を恵んでくれる人も無くなり、家も腐朽してきたので、この里での生活に見切りをつけ、家を捨て、鍋一つ、鉞(まさかり)一挺を携えて、安政四年の四月頃に山に入ったのでした。そして、ウバユリやエゾエンゴサクなどの球根やセリ科のエゾニュウやハナウドなどの茎をとって生命をつなぎそれらも枯れ果てたときは、わが身も死ぬものと覚悟して深山に分け入ったのである。そして、とある大木の根もとが朽ちて穴があいたところを終の棲家としたのである。その後、親切な船頭が、和人に梅毒をうつされたヤエレシカレという三十前後の女性を連れてきて簡略な小屋を作ってくれた。石狩川に探索に出向いた松浦武四郎は、ヤエコエレの話を聞き、彼女を訪ね、米、たばこ、針などを与えて去っていったのであるが、時の箱館奉行の耳にも達っし、奉行みずから多くの玄米を与え、ヤエコエレの妹娘シトルンカの一家をして、その時ヤエレシカレは亡くなっていたが、ヤエコエレと同居していたセシルエも併せて面倒を見させたのである。一人の人間の生きる強さについて考えさせられる話である。

 二、メキシコのフリーダ・カーロの矜持

 フリーダ・カーロは、メキシコの女性画家であり、女性として男性と同等であるとの矜持をもって生き抜いた方であった。生まれつき病気があり、病魔との闘いの連続の一生であった。原因としては、ポリオとも脊椎の形成不全とも言われる。そして思春期には、バスに乗り合わせて、そのバスが路面電車と衝突したことにより骨盤の上あたりから腹部に鉄の棒がつきささったり、腰椎や右脚の骨折等におそわれることにより、一年以上の入院生活を余儀なくされた。メキシコ芸術界の大立者ディエゴ・リベラとの結婚生活も夫の浮気などで精神的に悩んだり、自身も右足の指を切断したり、何度かの流産も経験し、最後には右脚を切断し、一年後の一九五四年に四十七で亡くなったのである。かかる困難に正面から向き合って常に前むきに進んだフリーダ・カーロの生き方は、わたしたちに勇気を与えてくれるのである。

 合 掌

<令和3年6月18日>


第76号 「アネハヅルに学ぶ人生」

2020年12月20日 20:55更新

 アネハヅルは、ツル類の中で最も小さく、全長85センチ〜100センチのツルである。その中で一部のアネハヅルは、ヒマラヤを越えることが知られております。夏場はチベット高原で子育てをして、冬場はダウラギリ山群に沿うかたちでヒマラヤ越えを果たしてインドの越冬地で過ごすのです。このヒマラヤ越えから学ぶことは、わたしたちの人生にとって意義のあることのように思われる。

 一、アネハヅルは上昇気流をうまく利用する。

 ヒマラヤ越えの時にアネハヅルが飛ぶのは、高度四千メートル〜六千メートルの間であり、ずっと羽撃いたままではすぐに体力を消耗してしまいます。そこでアネハヅルは、上昇気流を上手に利用しながら、降下と上昇をくり返して、徐々に高度を上げて、最後には、山にギリギリまで近づき生命がけの山越えを果たします。この時に上昇気流が無ければアネハヅルは山を越えられません。わたしたちも有形無形の多くのものに支えられ乍ら、ウィルスの脅威に怯えながら生きております。この時、助けになるのが確かな情報です。しっかり生活するには、おかしな情報を捨て去る見識を養う必要があります。

 デジタル機器を悪用するのでは無く、人類のために上手に使うことが出来なければ、わたしたちの知恵は、アネハヅルには及ばないということになろうかと思われます。

 ニ、若い時には全身で生命と向き合え。

 山越えの時に、アネハヅルは、群れをつくる時に若いツルだけのグループと年配のツルだけのグループに分かれるようである。若いと、上昇気流のとらえ方が未熟で、山越えの時に十分な高度を得られないで何度か挑戦しなければならないのである。困難に立ち向かう時、一羽ではなしとげられなくても、仲間が助け合うことにより、多少の犠牲があっても無事に自力で山を越えるのである。共生の姿を示すものであろうが、大切なことは、他に頼るだけでは物事は、成しとげられないということである。自分自身をしっかり見つめることにより全力を尽くすことである。良い人生を送るためには、若い時の苦労をできるだけ経験することである。無限の可能性を見つけ出すことは、その人にとってはその人にしか出来ないのである。努力は裏切らないことを信じて、最低限自分で自分のいのちを絶つことの無いようにしたいものです。逃げたい時には逃げる弱さを持つことを許す社会でありたいものです。SNSによるコロナ禍中のいじめは、中世ヨーロッパのペスト禍中における「魔女狩り」と、心情的にはそんなに隔りは無いように思われる。

 三、ほど良い状態を目指す。

 アネハヅルは、山越えの時に隊列をつくる。そして、常に先頭を交替することによりお互いの体力の消耗を防ぐことで、無事山越えを成しとげるのである。このことを可能にしているのがアネハヅルの体の大きさにあるようである。大きすぎれは体力の消耗が激しくなり、小さすぎればヒマラヤ特有の強風に流されて、共に山越えは困難なようである。多くの民族の苦難の上に成り立っている先進国とされるわたしたちは、赤松啓介氏(在野の民族学者。)が、その著書の中で「なにが欲しいのか。「無限」の富を求め、「無限」の地獄へ落ちた私たちは、いま空も、地も、川も、海も化学物質、核物質の汚染で死滅させ、やがて一切の生物が絶滅する日を待ち望んでいる。そうなると山の神、野の神、あらゆる妖怪変化たちも、またその歴史を閉じるだろう。・・・人間も、地球も、宇宙も、いずれは滅亡する。この短い生涯をなんとか、有意義に暮らせないかというのも、また一つの生き方だろう。そうなると百人、百趣で、どうぞ御勝手に、と突き放すほかあるまい。」と述べておられるような所で生活しているように思われる。「デジタル社会における富の分配と助け合う社会の実現を目指すことが、わたしたちに、求められている喫緊の課題であろう。

 合 掌

<令和2年11月18日>


第75号 「貧者の一燈」は生き方の尊さを示す。

2020年12月20日 20:53更新

 貧者の一燈とは、有名なおしえであり、真心のこもった貧者による仏への供養の一燈は、富者の財力をもととする万燈にも勝る功徳(現生・来世に幸福をもたらすもとになるよい行い。善根とも、神仏の恵みとされる御利益をもあらわす。)があるとされている。ブッダの説法時、王の献じた万燈が強い風で消えてしまった中、貧しい老女の献じた一燈だけは消えることなく燃え続けたということに由来するおしえである。人々に真心をもって生きることの大切さや誠意の尊さをおしえてくれるものである。

 この老女の生きて来た道が、全ての生命あるものの理想の形である無私の姿を示すものであろう。「朝は希望に起き 昼は努力に生き 夜は感謝に眠る」。この様な単調な生活を、日々の貧しい生活の中で、確たる自負をもって、しっかり生きて来られた誠を尽すものが、ブッダの説法時における一燈であろう。貧にして施すことは難かしいと言われるが、それは財施(社会的生活において成功をおさめた者のボランティアとしての側面からみたもの。)に比重を置いた狭い考え方のように思われる。

 誰でもがどんな境涯にあっても、無財の七施に見られるように、自分自身の回りの人々に対して生きる勇気を与えることができるのである。

 日本において、初めてアジアで開かれたオリンピックとして知られる第十八回東京大会が行なわれた時代に、韓国にあって、貧しいながらも懸命に生きていた一人の少年がいた。その名は、李潤福(イユンボク)と言い、日々の出来事を日記に綴っていた。その日記が、「ユンボギの日記」として一冊の本として出版され、多くの人々を勇気づけたのである。日本においても、「ユンボギの日記」の日本語版が出版され、その本をもとに、「マンガ版ユンボギの日記」とも言える「あの空にも悲しみが」(一九九二年に上下二巻として小峰書店より刊行。)が出されている。本の中には、朝鮮戦争後の混乱が未だ治まらないパク・チョンヒによる軍事政権が、民政化へ舵を取り初めた頃のユンボギ少年とその家族、学校の友達、回りの大人の人々との心暖まるエピソードが語られております。

 コロナ禍の今、多くの方々に是非目を通して頂きたい内容がもりこまれております。

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第74号 「ひとつことに生きる」

2020年12月20日 20:52更新

 「コロナ禍に閑かに往ける人のあり」、此の句は一人の女性に向けたレクイエム(鎮魂曲)の想いを込めた小僧の心情である。

 その女性とは、本名本目真理子。「ガード下の靴みがき」のヒットで知られ、人生の後半生を「ねむの木学園」(肢体不自由児の養護施設)の運営と「福祉の里・ねむの木村」の完成に捧げられた人である。言うまでもなく女優・歌手・舞台人として活躍の後、肢体不自由児役を演ずるために訪れた病院や施設の方々と接っせられる中で、何かを感じとられ、独力で養護施設の立上げを思いたたれ、その円成に全財産と人生を捧げられたことは、みなさんよくご存知のことと思います。

 尊敬すべき宮城まり子さんから教えられることは多々ありますが、ニ、三の観点から述べさせて頂きます。

 一、人生の転換点における腹のくくり方

 宮城まり子さんは、四十歳をすぎて、それまでの名声と地位を投げ出して、まったく未知の分野である福祉事業に乗り出されたのである。小僧のように気弱な人間には到底まねのできないことであります。設立書類の作成に関しても極力ご自身で成されたようです。その時に全面的に支えられたのが、芥川賞作家の吉行淳之介氏である。全身全霊で福祉事業に取り組む姿からあふれる情熱が、吉行氏を始め多くの方の助力を呼び込んだように思われます。生涯をかけて「ねむの木」の活動を行ってゆくんだという強い意志の発露を感じさせられました。この尋常ではない生き方が、多くの人々に深い感銘を与えたことと思われます。「生涯を貫く」ことの難しさは、一部の芸能人の間で行われた「ジャガイモ」の会が、現在は、その活動を停止している一事を以ってしても理解できるものと存じます。

 二、人生のパートナーとしての二人の在り方

 宮城まり子さんと吉行淳之介氏の愛のあり方は、お二人の互いの人間性の尊重に重きをおき、互いの生き方を認め合うという成熟した関係にあるように思われます。生野高等女学校中退の宮城さんも、東大英文科中退の吉行氏も、それぞれの分野で成功をおさめられた方であり、人生における信念はそれぞれ違っていた事でしょう。大切なことは、その違いを理解した上で、相手の生き方を全て認めた上で、ささいなことには心を痛めることなく、相手の人生のプラスになることに心を配ることであろう。小僧にはわかりかねることではあるが、家庭内にあって、男女が良い関係を築こうとすれば、互いに信頼し合うことが大切になるのでしょうか。その信頼を得るために、ひとりひとりが、自分自身を大切にして社会の中でより良く生きてゆくことを目指すことが求められるのでしょう。腹をすえてしまえば、生物学的にも女性の方が強いのですから、男性は仏さまの手のひらの上で戯れる孫悟空のようなものであるという位の心の余裕を、女性の方におもちいただくと、社会の風通しが多少は良くなるのではないでしょうか。

 コロナ禍の中にあって、世の中における男女の在り方、家族の在り方、社会の在り方、福祉の在り方を考える上で、宮城まり子さんの人生から学ぶことはたくさんあるように思われます。目立ちたがりの人々の多い昨今、明治から昭和にかけて活躍された臨済宗の名僧、山本玄峰尊師が常々説かれていた「陰徳」(人々の気づかないところで人々のために善い行ないをすること)の功徳ということに思いをめぐらすことも、宮城まり子さんの生き方に通ずるように思います。今、わたしたちが出来ることは、目に見えないところでわたしたち一人一人の生活を支えて下さっている多くの方への感謝の念いを、常に心の中に持ち続けることであろう。

 合 掌

<令和2年6月18日>


第73号 「希望の色に託すしあわせ」

2020年12月20日 20:50更新

 「薄紫の山脈ははるか希望の雲を呼び」と、島根県民歌にあり、大田市歌には「石見路のひんがしにして空清く輝くところ」とあります。どちらも朝を連想させる薄紫、青の色が歌い込められております。朝は、これから始まる一日がより良い日となるようにとの希望を託す一時であるように思われます。その一瞬に幸せを感じることのできる人は、はたして何人おられることでしょう。

 日々の生活に追われ、目に見えない時間に追い立てられながら、自身を取り巻く自然の色のうつろいをしっかり感じながら生きることができにくい世の中になっているのではないでしょうか。確かにスマートフォンは、私たちに、世の中との関わりを広く豊かにし、生活を便利なものにしてくれております。その中で気になるものに、「SNS動画」に見られる“いいね”と言う書き込みがなされていることです。動画を投稿した人は本当に感動したものを提供しておられるのでしょうが、書き込みを入れた人々は、ただただ目にした機械に写し出された内容なり色にに心を寄せたに過ぎず、本当の色ではないように思われます。朝の色にしても、豊かな自然の残る田舎では当たり前である薄紫の広がりも、都会の中では、しっかりと全身のまなこで受け止めることができないようになっているのでしょう。

 しっかりと自然を感じて生きることのできない多くの人々の心の拠り所としての側面が、“いいね”という表現に表れているのでしょう。この「SNS動画」における自己存在のゆがんだ顕示欲が危険な所に立ち入っての撮影や、立ち入り禁止の場所や聖域とされる場所への不法侵入による撮影が行われているのでしょう。この好奇心を良い意味で深めるためにももう一度世の中で一番感度の良い生身の目でもって、しっかりとこの現実を見つめ、改めて都会の中の自然の色、働く人々の輝く汗、赤ちゃんとお母さんのなんとも言えぬ幸せ感等をしっかり目に焼き付けるような生き方を心がけるだけでも、「SNS動画」に振り回されるようなことはなくなるように思われる。

 自分自身の人生を、人と比較することにより生きる上での努力目標として考えるなら良いでしょうが、不必要な劣等感により、自己を卑下することは厳に慎むべきでしょう。「サグラダファミリア」の建設に関わっておられる、日本人の外尾悦郎氏は、ガウディが「サグラダファミリア」に託した想いを、朝の薄紫の色と表現され、日々生きる人々の希望の色である薄紫を理想の色として仕事を進めておられる。外尾氏によれば、自然の色は、一色のグラデーションであり、色には境がない。光が万人に等しく注ぐように、人間も自分で壁を作ることなく、心を開いて全てを受け入れることが大切であるとのことです。その心を開くための希望の色が薄紫の色であろう。

 合 掌

<令和2年4月18日>


第72号 「世の中を良くする自己の在り方」

2020年04月12日 21:37更新

 今日、世界において見られる民主主義の在り方は、その根底を支える民衆であり、有権者である個々人の在り方が、常に変化しており、不特定多数の人間の欲望が複雑化しているので、1989年に、すでに矢野暢(とおる)氏が指摘されておられる通り、衆愚の在り様を示しているのでは無かろうか。矢野氏は、政治学者の立場から、「民主主義は、不特定多数の「衆」に主役性をふりあてる政治である。それでいて、政治責任は、特定の政治家がとらされる仕組みになっている。・・・そのように、「衆」の政治は、実に不安定な均衡のうえに成立しているのである。「衆」が匿名の集団性の原理におぼれたときには、政治の質は、たとえ民主主義の制度のもとであっても、まちがいなく堕落する。ところが「衆」がなんらかの良識を共有し、微妙な良質の政治感覚で動いてみせるとすれば、民主主義はすぐれた実質をもちうる。「衆愚」という言葉の対語として、私としては、「衆賢」という言葉を用意したい。」と述べておられる。唯、政治は、きれいごとばかりでは済まない「必要悪」も求められてくるから、衆愚か衆賢かは、「衆」の一員であるわたしたち一人々の在り様にかかってくるように思われます。

 かかる時代にあって、情報の汎濫にさらされているわたしたちは、今一度、「真の自己」ということについて考えてみることも有用なのではなかろうか。プッダは、それのみで単独で存在する自己や「万物に内在する霊妙な力」としてのアートマンとしての本体としての自己は否定されましたが、無常の存在として、他の存在とつながりを有し、自己を浄化することにより、この世の苦しみをのり越えてゆく主体としての自己の存在は認めておられます。自己を愛し、自己を大切にすることについて、『ウダーナ』の中に、コーサラ国王パセーナディと妃のマツリカーの対話を通して見ることができます。王と妃は、それぞれが、この世の中で、もっとも愛しいものは、自分自身であると述べた上で、ブッダのもとに赴いて、このことについて尋ねると、ブッダは、「心のなかでどの方向に探し求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見いださなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それゆえに、自己を愛する人は、他人を害してはならない。」と答えられたのである。「自己を愛する人は、他人を害してはならない。」という言葉は、非常に重いものがあります。人間は、千差万別で、容姿や学識や生活能力等、一人々皆違っています。又、一人の人間として、病気がちの人、身体の不自由な人、社会の中で生きづらい人等の方々もおられます。犯罪に手を染める人もいるでしょう。このような人々の中にあって、厳しき社会生活を送る上で、本当に自己を愛しいと思うことは、そんなに簡単なことでは無いように思われます。どうしても、わたしたちは、人と自分を比較して見ることが多いように感ぜられます。そうすると、他人に自分の人生を振り回されることも多くなり、自己卑下を招くことも多くなるように思われます。ですから、経典の中に、自己を護り、愛しむことについて、次のように説かれるのです。「愚かで知慧のない人は、自己に対して仇敵のごとくにふるまう。」とあり、「たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ」という、時には毅然とした態度が求められる様ないましめも求められております。そして、「自己を護る人は他の自己をも護る。それゆえに自己を護れかし。〔しからば]かれはつねに損ぜられることなく、費者である。」とも説かれており、利己的な我執(自分一人さえ幸せであり、富があり、名声があり、社会的地位がありさえすれば、他人はどうでも良いという誤った見解。)から離れるために、自己を護るのである。世の中の一人一人が、このように自己を護るため、自分自身の欲に打ち克ち、つねに行ないをつつしみ、自己をととのえることが出来て、初めて自己こそ自分の主であると言えるのである。このような自己の主体性を持つ人々が増えることにより、民主主義の在り方は、数の力のみに偏る悪弊から脱却できるのではなかろうか。「衆感」が「衆賢」に変わる深いおしえを、「ブッダ」の始められた仏教(ほとけのおしえ)の中には、無数に存在すそれは、一人の幸せはみんなの幸せ、みんなの幸せは一人の幸せという共通理念が、全てのおしえに流れているからである。

 合 掌

<令和元年11月18日>

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第71号 「落葉隻語・ことばのかたみに学ぶ」

2020年04月12日 21:08更新

 「健全なる中流とは、単なる中産階級ではありません。まず社会的に認められ、安定した収入が得られる「正薬」を持ち、家族というものを養い、文化を守り、社会に参加している市民階級です。・・・自分の見識を持ち、助け合いによるよい社会への希望と信念を持っていた人たち、それが「普通」の市民だったのです。「当たり前」の生き方だったのです。」(多田富雄著「落葉隻語」)以前の日本の在り様は、大きこのようでした。その当時は、人は努力さえすれば何とか大学にもいけたし、普通の生活ができたのです。しかし、多田氏も述べておられるごとく、金融経済が実体経済を凌駕し、バーチャルな経済が広まることにより、健康な中流は影が薄くなり、貧困層と、一部の富裕層の存する格差社会の広がりの中で、人々の心は荒廃し、助け合いの精神が失われてきております。核家族化し、自治会にも入会せず、自宅介護もできないような所で、自己疲弊しながら生活を送らざるを得ないような人々が増えてきている社会は、不健全としか言いようがありません。政治にしても、社会弱者や世の中の苦境にあえでいる人々に対して有効な施策を見い出せておりません。しかし、この現実を甘受して、おかしいことはおかしいと声を出せない、わたしたち国民一人一人にも、現代を、おかしな世界にしてしまった責任の一端はあるように思います。確かに豊かな生活の為には、経済力は大切です。しかし、経済が世の中の全てを支配する、経済至上主義は、世の中の歪みを増長し、子供の精神まで蝕んでおります。『スッタニパータ』(ブッダのことば)の第一蛇の章、七、賤しい人の中に、「己れは財豊かであるのに、年老いて衰えた母や父を養わない人、―かれを賤しい人であると知れ。」とあり、「母・父・兄弟・姉妹或いは義母を打ち、またはことばでののしる人、かれを賤しい人であると知れ。」とあります。そして、「ひとを悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、ーかれを賤しい人であると知れ。」ともあり、人の賤しさは、その人の生まれによるものでは無く、その人の行ないによるとして、チャンダーラ族のマータンガの行ないの尊いことが説かれております。現在の利便性のみに特化したインターネット社会や、AI化の促進の持つ負の側面をしっかり認識して、人間が、その長い時間をかけて形成してきた家族の在り方を、真剣に考え直すことが求められているように思われる。少くとも、トランプ氏のような大統領が誕生したということは、多数決によって物事が決まる議会制民主主義の現状が、衆愚政治に陥っていることの証しであろう。

 最後に、多田氏の著作(『落葉雙語』)の中から、一つの問題点を出したい。それは、同書の中で述べておられる「漢方薬郵送禁止の乱暴」ということである。ことは、2009年6月に改定された「薬事法」により、それまで可能であった漢方薬の郵送が、薬のネット販売の規制の煽りを受けて、禁止されたことである。この禁止により、遠くに住みながら、漢方薬に頼ってきた高齢者や障害者は、途方にくれているとのことであり、このような悪い規制が行なわれているのは、日本だけであるとも、多田氏は、当事者の立場から、その憤りを、多少押さえぎみながら、述べておられる。今回の消費税十パーセントへの増税についても言えることですが、政治家・官僚は、本当に国民の立場に立って諸般の物事を決めているのかということです。大切なのは、誰にでも理解できる「シンプルイズベスト」の視点ではなかろうか。

 『法句経』に、「およそこの世に、そしりを受けざるはなし」とあります。おおよそ、人々は、人の悪口や陰口を絶え間なく言っているのが世の中の在り様です。ですから人の言にいちいち腹を立てることなく、世間はそういうものであるから、人にはそれぞれの考え方があるのだと受け取って、それを許していけるように、自ら心掛けたい。全てが私を磨いて下さる声として受け止めたいものです。池田昌子女史の言われるように、「自分が存在しなければ、世界は存在しないのである。」と言うように、人生の主役は、私自身であるという気概を持って生きてゆきたいものである。

 合 掌

<令和元年9月18日>


第70号 「アイヌ民族を通して学ぶこと」

2020年04月12日 20:50更新

 昨年は、北海道開拓150年ということであったが、世間的に余り注目されることは少なかった様である。北海道は、元々先住民たるアイヌの人々が住んでいた土地で、鎌倉〜室町時代頃から和人(本州以南の人々を指す。)の移住者が少しずつ増えていったようであり、明治二年に現在の北海道という地名になったようである。

 江戸時代末〜明治にかけて蝦夷地(北海道、サハリン、千島)を探検して、北海道開拓に大きな力があった松浦武四郎は、自から住んでいる土地をカイと呼び、和人に虐げられていたアイヌの人々に対して、常に同じ人間として接っしていたのである。彼は、強きに弱く、弱きに強い性癖を持つことの多い和人の中にあって、人間としての平等に目覚めていた数少ない人間の一人であった。そして、そのような心情のあらわれとして「心せよ えみし(アイヌ)も同じ人にして わが国民の数なるならん」との、人々をいましめる歌も残している。明治に入り維新政府の役人となったものの、政府の開拓政策を批判して、すぐに辞職している。松浦武四郎の生き方から学ぶことは、仏教における慈悲の心であり、中国における私の心であり、日本人のおもてなしの心の奥底に流れるおもいやりの心であるように思われる。

 『ブッダのことば(スッタニパータ)』第一蛇の章八慈しみの中に、「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。」とあり、「何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。」とあり、「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし。」とあります。(「岩波文庫」中村元訳参照。)

 次に恕については、『漢語林』に、おもいやり、同情、いつくしみという慈悲に通ずる意味が示されております。『論語』の「衛霊公」に関する文に、「其れ恕か。己の欲せざる所、人に施すこと勿かれ。」とあるを引用して、「それは、恕だろうな。(それはたとえば)自分が望まないことは、他人にもするな、ということだ」と説かれています。来年のオリンピックの招致活動の時に、話題になった「おもてなし」は、持て成すで、物事をとりなしたり、処置したり、人に対しての取り扱い、待遇すること等と併せ、歓待したり、ご馳走したりする意味があり、面倒をみたり、世話をすることの意もあるようである。

 大切にもてなす意である「おもてなし」は、「もてあそぶ」という神事に関わる語に通ずるもので、平安期には、「もてあそばす」という尊敬表現も見られたようである。そして、「おもてなし」の極地は、他の存在(人間とは限らない。)に対して、しみじみと、よくよくとの意を以って、自からの心情の委曲(つまびらかにくわしく、ものごとを深く理解する。)を尽すことをあらわすとされる「つばらつばら」という言葉に求められうるであろう。「つばらつばら」に見られる、ものごとをありのままに見ることを修行の始まりとする初期仏教のおしえに通ずるものが見受けられる。人々の良き行ないの中に、仏のおしえは光りを放つものであるから、北海道開拓150年を迎えて、松浦武四郎という伊勢の郷士(武士であるが、農村に居住して農業をいとなみ、若干の武士的特権を認められたもの。坂本竜馬も郷士の出である。)のアイヌ民族に対する接っし方から、仏のおしえに通ずるものを学びとらせていただいた訳である。ちなみに、『北の海明け』(佐江衆一緒《新潮社)という小説の中には、江戸末期のアイヌ民族の苦境が描かれているが、その最後に、「日露和親条約」(安政元年に締結された。)の第一条〜第三条までの条文が載せられている。この条約に関して、先住民たるアイヌ民族には一言もふれられていないということを無言のうちに示しておられる。条約以前から北海道や樺太(サハリン)、千島列島に居住していたアイヌ民族の先住権は、一顧だにされていないのである。故梅原猛氏は、縄文文化やアイヌ文化、沖縄の文化を高く評価され、先住民としてのアイヌの人々に学ぶ必要のあることを示されましたが、今日でも、『行きなおす力』(柳田邦男著(新潮社〉)という本において、柳田氏は、「ぶつかった柱をなでるアイヌ文化」の中で、アイヌの子育ての文化に触れ、子どもが棚の木におでこをぶつけて痛いと言うと、大人は棚の本のほうをさすって「いいいい、治る、治る」と言うと、子どもはきょんとして、痛みを忘れてしまう旨の話しを教えられたことが述べられております。そして、この話しを示された宮坂静生氏の言として、「意志がないと思われる物の傷みを感じることが出来るかどうか、その考え方は、これからの我々のものの考え方の中で、一番大事ではないか」と論じられているものを引用され、「何とすばらしくも凄い子育て論であり、人間論であることか。・・・これは他者への配慮を失った「自己中心主義」や「拝金主義」の蔓延する現代の日本人の精神状況に対する最も的を射た、しかも有効な警句ではないか。傲慢なヤマト民族よ、戦後教育や日教組を批判しているヒマがあったら、頭をぶつけた柱や棚のほうをなでてやるアイヌの文化を学ぶがよい。」と、氏の見解を示されておられる。

 新らしい年号が『万葉集』の中から採用されたが、アイヌ民族や沖縄の人々にとっての『万葉集』とも称すべき、「アイメユーカラ」や「おもろそうし」が存在することにより、我が国の文化は豊かなのであるという故梅原猛氏のご指摘についても考えてみることは、今日の荒廃した精神文化の中においては、必要なのかも知れないように思われる。

 合 掌

 ※「つばら つばら」については、『字訓』(白川静著<平凡社>)参照。

<令和元年5月18日>


第69号 「行ないの中に人格は現われる」

2018年11月24日 21:45更新

 読売新聞の朝刊に、月一回掲載されているコラムに「時の余白に」というものがあります。筆者である芥川喜好氏の考えがストレートに出た内容になっております。そのなかに、「ホルショフスキーの奇跡」と題されたコラムがありますが、ポーランドに十九世紀末に生を受けたホルショフスキーというピアニストの、一九八七年十二月に、生涯ただ一度だけの来日演奏会が開かれたことに関するものです。来日当時、九十五歳であったにも関わらず、生気あふれる、みずみずしくも熱いものが広がる中、バッハ、モーツァルト、ショパンの曲が、それぞれのタッチにふさわしい音を奏でて、聴衆を魅了したとのことです。コラムにも出てくる音楽評論家の石井宏氏は、「人間の精神と肉体が九十五歳まで健康に営まれたとき、どれほど見事な存在になるかを教えてくれている」と、ホルショフスキーを絶讃されておられます。これを受けて、芥川氏は、謙虚に、自らの成すべきを成すだけのことが、どれほど難しいかということであり、人々が同じ言葉を口にし、同じもの、同じ人をもてはやす現象は、いわば現代における商業主義の勝利の風景であり、みな一緒に盛り上がりながら、その実、人間一人の想像力や判断力の貧しさを語っているようにみえると、内容を問うことのない、話題最優先のスター主義を強く批判しておられます。

 わたしたちは、現在の風潮に流され、深く考えることも無しに生活していることについて、一度立ち止まってみる勇気も必要なのではないでしょうか。前号でも多くを引用させて頂いた池田晶子さんのコラムに、「人間の価値って何だろう」というものがあります。TVのニュースの取り上げ方に異を唱え(小僧も、最近のニュースは、話題性ばかり重視して、本当に大切なことを伝えていないように感じていましたのでまったく同感を覚えました。)、ある国会議員の数十年前の学歴詐称に関して、人間の価値観のあるべき姿を示しておられる。池田女史は、先の国会議員の学歴詐称に関連して、「米国大学卒という学歴が、なにやらすごいことであるという価値観である。だから彼はそれを詐称したし、人はその露見を喜んだ。どちらもともに、学歴が価値だと思っているのである。しかし、どうして学歴が人間の価値なのか。いまさらながら、私はこのことが不思議である、人間の価値とは、その人間の価値に決まっている。一流大学卒の、くだらない人間は、くだらない人間である。大学など出なくても、まともな人間はまともである。人間の価値とは、その人間の人格、人格そのものである。学歴や頭脳なんて価値は、人格で人間を評価できないくだらない人間が、でっちあげたまがいものの価値である。」と述べておられる。物事の本質を鋭く見つめ、職人さんの貴重価値を正当に評価しておられた永六輔氏の考えに通ずるものが感じられます。今は故人となられた池田晶子女史、永六輔氏(仏教寺院に生を受けられた。)の哲学的なお考えと共通するものが、『スッタニパータ』(ブッダのことば)の第三大いなる章の第九「ヴァヒッタ」のところにおいて見受けられる。中において、仏教者の立場から見た理想の存在としての「バラモン」の姿の諸相を出した後に、生まれとしての差別は無く、皆平等に人間としての存在価値を有し、その人間としての社会的価値は、その人の行ないによって決定することが述べられている。農業人は、農業により生計を立てるから農民と呼ばれ、商売人は、商ないにより生計を立てるから商人と呼ばれ、漁業人は、漁により生計を立てるから漁師と呼ばれるだけのことであり、その人間の本当の価値は、その仕事にあるのでは無く、その仕事を通してあらわれる磨かれた人格のあらわれに対して、わたしたちは、敬意の念を持つのである。ましてや政治家たるもの、田中正造の残した言葉、「真の文明は山を荒らさず川を荒らさず村を破らず人を殺さざるべし」という位の高い志を持ってこそ、始めて多くの選挙民によって国政或は地方行政を任された国民の幸福のための政治が行えるのではなかろうか。市井の人々も、高官に就いている人々も、問われるのは、唯一つ、それぞれの立場においてどのように生きてゆくかということであろう。

 人として正しく生活する中で、長年の徳の積み重として知らず知らず身体の全体からにじみ出てくるものがその人の人格であろう。そのような人々をしっかり受けとめるためにも、「雪降れば冬こもりせる草も木も春に知られぬ花ぞ咲きける」紀貫之(「古今和歌集」)というような雪を愛でる豊かな心(大雪に見舞われる地域の方々はそのようにはいかないと存じます。)を持ち、「ひっぱりて動かぬ橋や引っぱりぬ」(高野素十の句)という根性を持ってお互に健康で生きてゆきたいものです。

 合 掌

<平成三十年十月十八日>


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